満州事変と政党政治 軍部と政党の激闘 (講談社選書メチエ)
刺客に襲われ志なかばで病没した濱口雄幸の遺志を継ぐべく、外相幣原喜重郎、蔵相井上順之助ら濱口の主要閣僚が留任した民政党による第二次若槻禮次郎内閣が発足した。再び台閣に立った若槻自身は、財政家(もと大蔵次官)で男爵として貴族院に議席を持つが、一貫して政党政治家として行動している。
濱口は明確な外交、内政のビジョンを描いており、それは国際社会との協調と中国への内政不干渉を柱とする幣原外交、財政の整理と国際競争力の向上を企図した井上財政という形で着実に実行されていた。また、陸軍大臣の宇垣一成とその党派は民政党内閣と協調しており、さらに元老の西園寺公望と暗黙のうちに呼吸をあわせていた大戦間期の政党政治の体制はかなり強固なものであった。
本書はその強固であったはずの政党政治が、陸軍によって打破される過程を描写する。満洲事変こそが、その劃期をなす事件であった。
まず、著者によれば満洲事変はひとり関東軍が暴走したものではなく、軍中央(陸軍省、参謀本部)の主要実務ポストと関東軍の高級幕僚を占めていた反宇垣派の陸軍中堅幕僚グループ「一夕会」によって計画、実行されたものであるという。一夕会の中心人物として、著者は永田鉄山の名をあげる。
永田もまた明確な国防構想とそれに基づく国家改造のプランをっていた。(濱口と永田、二人の路線の相克は同じ著者の『浜口雄幸と永田鉄山 』に詳しい)
自派で要職を固めた陸軍中堅幕僚グループは事変を惹起し、宇垣派のトップをも含めた陸軍全体を、ひいては国論を「満蒙領有」と国家改造へと引きずろうとする。攻める陸軍中堅幕僚グループ。守る若槻内閣は先手をとられ後退を余儀なくされるが、著者によれば事変の勃発から三ヶ月のうちに体勢を立て直していたという。宇垣派の陸軍トップとの協力関係を再度樹立した内閣は関東軍の満洲全域への展開の阻止に成功し、事態は膠着の様相を見せる。
が、ここで思いもかけぬ事で若槻内閣が崩壊する。陸軍の統制に苦慮していた若槻はより強力な体制を求めて野党政友会との連携を主要閣僚の安達内相に諮った。これが隙になった。幣原外相、井上蔵相に反対された若槻首相はただちに政友会との接触を断つよう安達内相に伝えるが、なぜか安達は連立内閣にこだわり閣議にも出てこない。やむなく若槻内閣は閣内不統一を理由に総辞職する。
著者は、この謎の行動の陰に一夕会が関与した可能性を指摘する。若槻の回顧録『明治・大正・昭和政界秘史 』にはあっさり書かれているこの出来事も、満洲事変を巡る陸軍中堅幕僚グループと政党政治の暗闘の中に位置づけるとかなりスリリングだ。
本書では数多くの人物、出来事、事件、当事者や周辺の人物の証言を紹介しており、これまで単に関東軍に引きずられていたやに思われていた日本国内においてこそ、事変を巡って激闘が演じられていたことを鮮やかに描いている。ここでは、その一部だけを紹介しようとして、かなりの長文となってしまった。是非、全文に目を通していただきたいと思う。