ドキュメント 戦争広告代理店 (講談社文庫)
本書を読んでもっとも示唆的だったのは、国家が遂行する「戦争」の広報を請け負うPR会社が存在することを、倫理的に断罪するのではなく冷厳な現実であり、かつ必然であるとしている点である。
取材対象となったPR会社は、確かにきわどいこともやってはいるが、情報操作とまで断言できるようなことはしていない。後々マスコミに暴露されるようなスキャンダルを抱え込んでいては、会社として存続していくことは不可能なのだ。
反対陣営のミロシェビッチ側に雇われたとしても、このPR会社は同様の緻密性と徹底性をもって確実に成果を上げていっただろうと思わせるに足るほど、「プロフェッショナル」という言葉がピタリと当てはまるような仕事ぶりなのである。だからこそ全米PR協会は賞を与えるにふさわしいと判断したのだろう。
国際報道機関が巧みに誘導され、その報道機関が国際世論を誘導していく。そして戦争の勝者となるか敗者となるかの鍵の一端を国際世論が握ることになった意味と重さを考えされられた。
そういえば、当時千葉大学の岩田昌征教授が孤軍奮闘、「ミロシェビッチ=悪人」説の底の浅さを痛烈に批判していたのを懐かしく思い出した。
ドキュメント 戦争広告代理店―情報操作とボスニア紛争
ボスニア紛争の時に行われた凄まじい広報戦略について解説したものです。
著者はNHKのディレクターで、元々は2000年のNHKスペシャルを下地にして書かれています。
本書では欧州の小国ボスニアの外務大臣が、財政難からたった一人でアメリカの広報戦略会社のスタッフ、ハーフ氏と出会うところから始まります。
当時ボスニアは隣国のセルビアと紛争を抱えていて窮地に陥っていました。
PR会社のハーフ氏は、外務大臣にマスコミ戦略について詳細なレクチャーを施し、アメリカを中心に、ヨーロッパ、国連、世界の世論を自分サイドに引き寄せるように様々な戦略を実行します。
その結果、見事に国際世論を動かしてセルビアを国連除名にし、国際的に孤立させて、紛争を有利な方向に導くことに成功します。
本書で見る限り非は双方にあり、また国力はセルビア側が有利だったにも関わらず、本来なら負けるはずの戦争を有利に導く、そのハーフ氏の手際は鮮やかで、まるで一流スポーツ選手のパフォーマンスを見るようでした。
しかし読んでいて戦慄させられたのが、このPR会社の起こす「演出」です。
日本では「空気」と呼ばれますが、これを非合法スレスレな手段を用いて自身に有利な流れに誘導すれば反対派がこの流れを逆らうのはほとんど不可能で、時に社会的に抹殺される危機すらあります。
それは戦時中の日本で国民が戦争反対を唱えること、また小泉旋風時にエコノミストが郵政民営化反対を唱えるようなものなのでしょう。
実際に、紛争当事者とは無関係で中立的な立場のカナダ軍人が、彼特有の誠実さでボスニアに不利な発言を行い、ハーフ氏に「流れを変える危険性がある人物」と判断されて政治的な抹殺に追い込まれています。
日本人は伝統的に自己主張が苦手で「正義は最後には報われる」とか「男は黙って・・・」という精神が今でも強く残っていますが、海千山千の虎狼が蠢く国際社会の中では、こうした性善説に拠って立つことはかなり不利な立場に立たされることとなってしまうでしょう。
そして本書で登場するPR会社は飽くまで情報・PRに関してのみの活動であり、一部がグレーゾーンではあってもリーガルな範囲内に留まっていますが、もしこうした活動が大国を背景にしてより大きな規模や資金で行われ、反対勢力による暗殺を装うなどの物理的な実行力を伴ったなら、国力が弱くPRに不慣れな小国がそうした流れを覆すのはほとんど不可能だろうと思わずにはいられませんでした。
本書は当事者の数多くの人物に実際にインタビューを行い、PR会社の内部資料なども詳細に検討した上で執筆されていて、NHKの時間とコストを十分にかけた丁寧な取材には驚かされました。
しかも文章が非常に読みやすく、読了まであっという間です。
また白眉なのが、著者自身がNHKといういわばPRを行う側にあり、それでいて中立な姿勢を保ちつつ、全体を冷静に俯瞰していることだと思います。
こうしたPR会社の暗躍はこうした国際社会の大舞台に関わらず、小は企業CMから一国の参議院選挙まで様々な場所に活躍の場があります。
どこかで仕掛けられた流れに安易に流されないようにするためにも、本書を読む価値は大きいと思います。
ボスニアで起きたこと―「民族浄化」の現場から
冷戦終結後、ユーゴスラビアは次々と分裂してゆき、それと共に戦争が起きる。中でも、ボスニア・ヘルツェゴビナで起きた戦争は、セルビアによる民族浄化というムスリムに対する虐殺行為が伝えられた。しかしながら、国連軍の空爆などの映像をTVを通して見た日本人の多くは、どうしてこのような事態に至ったのかなかなか理解出来なかったとのではないだろうか。著者は、砲弾が飛び交う現場に赴き加害者と被害者の両方を取材することにより、50年前に起きた、ナチスドイツとその傀儡であるクロアチア(ムスリムはクロアチア側)により行われたセルビア人に対する「民族浄化」の裏返しの行為ではないか、と推測する。やらなければやられる、50年前の殺戮を受けた民族の記憶が生み出した恐怖によって引き起こされた新たな恐怖。民族という現代の新たな国際問題の根本に迫ろうとした力作である。