整体入門 (ちくま文庫)
うーーーん深いなあ、人間の身体は。随分前に出た本ですが、眼から鱗のような書き方です。野口晴哉と言う作者は、社団法人整体協会の創始者は、治療を捨てて体育的教育活動に専心したそうです。人間が潜在的に持っている体力を自覚して、自発的に行為する事が肝要と説かれています。継続し信じてやればいいのでしょう。
Into the Wild
誰しも「...全てを捨てて何処かへ行ってしまいたい」と深刻な衝動に駆られた覚えがあることでしょう。私もある。現実問題としてこの日本の様な島国では、失踪するにせよ結局は人の中に紛れ込む羽目になるだろう。しかしこのノンフィクションで追体験される失踪と放浪は、アメリカ大陸ゆえに意味も違ってくる。我々日本人の冒険や放浪に対するイメージと彼等のそれは、スケールも意味も根本的に違う様に思える。そうしたロマンも大陸ではほとんど命がけの冒険になってしまう。これは私見に過ぎないが、主人公の行動はむしろ「孤独への挑戦」めいており、本書を読み進めるうち、主人公の魂の叫びが渓谷や山脈にこだまするような錯覚を覚えてしまうのは、きっと私だけでは無いだろう。私も孤独を愛するたちだが、こんな寂寥感に果たして正気を保てるか、とても自信は無い。私は都会に暮らして永く知人も少ないが、孤独を感じた事など一度も無い。TVもあるしゲームやインターネットが在る現在では、退屈や寂しさなど幾らでも紛らわす事が出来る時代、だからこそ「引きこもり」等も成立する訳だろう。少なくとも自身の「孤独」と対峙せずに済むのがこの文明社会であり現代と言う時代だ。しかし本書の主人公は、そのすべてを捨て、文字どおりの「荒野」へ向かった。本書は主人公失踪の足跡を辿るノンフィクションであり、真実は「神のみぞ知る」ところであるが、著者の推理は我々の興味と相乗効果を奏している。そして著者は主人公の死の謎にひとつの仮説を得る。つまり本書には主人公の実像や行動を追跡し、推理謎解き的な面白さがある。詳しく書かないが、主人公失踪の動機はある事情からの絶望と推理は出来るが、しかしそれだけてこんな放浪生活を志向するものだろうか? 何が彼をこんな「孤独への挑戦」に駆り立てたのか、悩み多き現代人ならば誰しもが、この主人公の「真実」を知りたいのではないだろうか。
Amandla
マイルスが晩年にステージで毎回演奏していた感動的なバラードが4曲あります。(1)タイム・アフター・タイム(2)ドント・ストップ・ミー・ナウ(3)アマンドラ(4)ミスター・パストリアス の4曲です。
そして、このアルバム「アマンドラ」に収録されている、「アマンドラ」「ミスターパストリアス」こそ、マイルスのバラード演奏の究極の2曲といえるでしょう。
もちろん、ジャズにせよ、何にせよ、素晴らしいバラードチューンはたくさんありますが、「ハードボイルドな」バラードを探すと、滅多にないもんです。スケベなバラードなら沢山ありますが(笑)
「アマンドラ」と「ミスター・パストリアス」で聴かれる深い孤独を背負ったバラードプレイは、ある意味で多くのジャズファンが待ち望んだ「ジャズへの回帰」と言えなくもないように思います。ただ、古くさいジャズのスタイルではないというだけで、この都会的でジャジーなムードは、かつての「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」や「ラウンド・ミッドナイト」と同じ世界ではないかと思う次第です。
ちなみに、ライブでこの曲をやると、マイルスのソロが終わったあと、4ビートでスイングするパートも出たりします。
また晩年のライブでは欠かせない、哀愁と緊張感が同居したハンニバルも名曲です。
バスキア [DVD]
スプレーを使用するグラフィティ・アートで有名になったバスキアの物語。1960年、プエルトリコとハイチの混血として生まれ、ブルックリンの貧民街から現代アートの寵児となった彼をジェフリー・ライトが熱演している。1983年、彼を見出したのがアンディ・ウォーホールで、デミッド・ボウイが良い役を演じている。また、彼の友人のバイヤー役がこれまた、デニス・ホッパーで渋く演じている。しかし、名声もつかの間、1987年、アンディ・ウォーホールが死去するとバスキアも翌年、死去した。死因は薬物中毒。27歳だった。現代ニューヨークの底辺と栄光。どこかすさんだ、激しくかつ寂しいアート。見るものの心を打つ映画です。
ディスカバリーチャンネル アマデウス・モーツァルト-天才作曲家の不可解な死- [DVD]
ディスカバリーチャンネルのシリーズは見応えのある物が多いが、私にとっては、これは「はずれ」の一つのように思える。しかし、モーツァルトの死因をコレクションしている人にはうってつけの作品かもしれないが、……。
150以上の死因が推測されているだけあって、この作品に登場する分析者たちの説明にはあまり説得力が感じられない。死因を決定づけるに足るだけの資料が決定的に不足している。私が現代人で、当時のヨーロッパの医療や衛生状態をあまり理解していない、あるいはモーツァルト自身の健康に対する意識を知らないということもあるが、どの分析者の死因の推測もこじつけのような印象を持ってしまう。
決定的な死因に関する資料が見つかって、その上でモーツァルトの死因がわかったならば別だが、今の段階では、150の中のいくつかを紹介されたに過ぎない物足りなさが漂う。
むしろいたずらに死因を推測するならば、天才的作曲家の死因は謎のままでもかまわないと思った。あるいは死因が完全に推測の域を超えないものだとして、モーツァルトの最期を物語にしてしまった方が、よほど楽しめる。たとえば、「アマデウス」のように。