息子の部屋 ― オリジナル・サウンドトラック
映画を見ていなくても、午後の友人との語らいや日曜日の
朝食の時に低めの音量でCDをかけると、そこはのんびりとして
スノッブなイタリアの中の上家庭(主人公は自宅で精神分析医
奥さんすごい美人、ティーンエイジの息子と娘。)
こういうピアノの音はどうやって出すんでしょうね、現代の
イタリアの香りが漂います。
のぶカンタービレ! 全盲で生まれた息子・伸行がプロのピアニストになるまで
前作「今日の風は何色」の感動をさらに深めようという意気込みで読むと、前作ほどの迫力はありません。これは親の関与度が徐々に少なくなる、ノブくん自身が切り開く割合が増えていくからでしょうか。
ただ、ショパンコンクールの描写は、その場で経験した者にしか書けない臨場感いっぱいのものでした。
次はノブくんのCDを買わねば!
探偵!ナイトスクープ Vol.7&8 BOX [DVD]
『大阪弁講座』の後半数分が、ざっくりカットされている…
肖像権の問題で仕方がないのかも知れないけれど、特にナンパ編はO.A時めちゃくちゃ笑ったので、是が非とも見たかったです。
次回は『おじいちゃんはルー大柴』、『ラインバックは死んだのか』、『アイヌの涙をさがせ!』、『ゆがんだ森進一!?』
を収録して下さい、朝日放送さん。
息子の部屋【字幕版】 [VHS]
大切な人の死は、どのように乗り越えられるのか。
そんなことを考えさせられる作品です。
たとえば、ラストシーンの海辺では、息子の死後、父が初めて笑う。
そのとき、父の心の中で初めて息子が「死んだ」。
つまり、遺族にとって、「死」は医療科学の判断で一義的に規定出来るものでもないし、信仰によっても、癒され得ない。
時間をかけて、彼らの心や記憶のなかでゆっくり「死んでゆく」のでしょう。
監督の、そんな死生観を感じます。
また、「死」を一般化して語ることは危険で、つねに誰かの「死」はその遺族や知人を含む個別の出来事でしかありえない、というメッセージも読み取れます。
たとえば信仰、あるいは科学や論理的分析、精神分析(主人公は精神科医)で語られる「死」一般は!!有効か?
それらは、元気に生きている人間の論理ではないか。
身近な人の死を前にして、科学も信仰も何もしてくれないのではないか。
遺族同士や仲間との感情のシェアの中で、少しずつ昇華してゆくものではないか。
そんなメッセージです。
この映画ではさらに、その「一般化の危険性」が他のシーンでも描き出されます。
たとえば、主人公の精神科医と常連の患者の会話。(趣旨のみ再現)
「私はしばらく休業するから、他の医者を紹介するよ」
「いや、あなたの所に通院してるんだ。他じゃダメです」
つまり、精神科医“一般”に通院するのではない。個別の○○先生に通院するというわけです。
つまり、危機や哀しみに直面したとき、抽象的な「生/死」一般、「医師/患者」一般などを対象にし!て!、語れるのか。
そんな問題を観る者に問うてきます。