抱擁
新聞連載や長篇小説の辻原作品とは文体が違うなあと思いました。
一文一文が隙間なくつながって、不思議な世界を組み立てていく感じにドキドキします。
ヘンリー・ジェイムズの「ねじの回転」を下敷きにしているそうで、確かに
そういう雰囲気はあるのですが、でも2・26事件のころの日本の不穏な感じが
にじんでいて、それがストーリーにしっかり絡んでいて、やっぱりすごいです。
まぎれもなく辻原登ワールドです。最後の一行を読むと、もう一度最初から
読まなくてはと思ってしまいます。壮大な『許されざる者』も良かったのですが、
私はこちらのほうがずっと好みです。
許されざる者 [Blu-ray]
近年のイーストウッドの映画は素晴らしい。
それは周知の事実となったが
それは一本一本の映画の価値以上に
イーストウッド自身の演じた自分に辻褄を合わそうとしているところにあると思う。
そして今日見直したこの映画あたりからそれははじまっていたのだと確信した。
西部劇から名を挙げたイーストウッドは撃つ事で人が死ぬ重みを描かずにはおれなかったのであろう。
これこそ作家というものであろう。
エンターテイメントも失わずに自戒も描いたいい映画です。
画質もよくなっているようでした。
許されざる者 下
いわゆる戦争の功罪を、この作品から垣間見た。
戦争が起きたおかげで実現した出合い。
学校に通えない子供たちのための、寺を場とした青空学校。
これらは、戦争のプラスの側面だろう。
戦争が起きたおかげで人々の心は、もう二度ともとには戻れなくなる。
点灯屋、ねじ巻き屋、左官、車夫、……自分はその道のプロフェッショナルだ、という自分の職業に対する誇りを持ち、そして、困った人に対する同情・憐憫の情を抱き、困った人を助けたい、という美しい心、美徳をそなえた人々。彼らを戦争が直接的に、また、間接的に変えてしまう。
作中、「戦争を扇動するのは悪徳の人で、実際に戦うのは美徳の人だ」という言葉が引用されているが、あらゆる悪を扇動するのは悪徳の人で、実際に行動するのは美徳の人、なのかもしれない。可愛そうだ、力になってあげたい、役に立ちたい、そういう、美しい心をそなえているがゆえに、知らずしらずのうちに、人々は悪の道に足を踏み入れてしまう。背負う必要のなかったはずの罪、抱く必要のなかった秘密を代償にして。
繰り返し場を変え、形を変えて登場するテント。人間のように体の中に骨があるのではなく、体の外に骨がある、という構造。いざというときには、飛べる。カナブンのように。
飛べる、となると、軽そうだ。軽さ、かるみ、というのは、この小説が有している特徴かもしれない。
上林が、「小雪」という騾馬に乗り、安否が絶望視される馬渕を探しに行く、シリアスなシーン。このシリアスな局面での滑稽、郷愁をまじえた描写は、重さ、深刻さからするりと身をかわす、かるさ、かるみが漂う。
――人形の動作は、はじめはぎごちなくみえていても、太夫の語りと三味線の音色が作り出すリズムによって、生命が吹き込まれ、型にのっとって動いているにもかかわらず、ある種の自在感を獲得しはじめる。
「人形」を〈登場人物〉、「太夫の語り」を〈語り手の語り〉、「三味線の音色」を〈登場人物の発話〉に置き換えると、これは、あるいは作者によるこの小説の評言ともなりうるかもしれない。
上巻冒頭で登場した「二重の虹」、「ふたつの虹」のイメージは、たとえば、こんなふうに繰り返される。
(前略)森宮の時間が、以前の速さで流れはじめたかのようにみえた。しかし、じつはもうひとつの新しい時間軸がその下に、あるいは傍に加わって、絶えず旧来の時間を衝き上げ、合流し、渦をつくり、呑み込もうとしていた。
そもそも虹は、「古くは竜の一種と考え、雄(内側の色の濃い主虹)、雌(外側の色の濃い副虹)を'と呼んだ」(『福武漢和辞典』より)という。「呑み込」む、というと、竜のような生き物も連想しなくもない。
「高速で移動する物体の中では、時間がゆっくり進む」。時間がゆっくり進めば、移動する物体は、速く進む? 低速で移動する物体の中では、時間が速く進む? 小説が一つの乗り物だとしたら? 小説が高速で移動すれば、読者に流れる時間はゆっくり進む? 小説が低速で移動すれば、読者に流れる時間は速く進む? ……わからない。
上巻で千春が見た不思議な夢は、下巻において結末を見る。どのような結末か? それは、読んでのお楽しみ。
辻原氏は、「ジャスミン」の中で、死者は数えられない、と書いた。ひとりの人間の死は、数字に置き換えられない。ひとはひとりひとり違う存在だから。「許されざる者」、というタイトルにも、そういうニュアンスが含まれている気がする。
結局、「語り手」としての「私」とは、いったい、誰だったのか、謎のまま終わった。あるいは、彼は、天狗の面をかぶった謎の男だったのだろうか?
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老いてなお盛んの感のあるイーストウッドだが、ダーティ・ハリー前後のイメージを大きく覆す作品。もともと西部劇は、日本の時代劇な位置だろう。そのため、哲学的な要素を含めば、あまりおもしろくなくなるのだが、骨太の西部劇でありながら、単純な娯楽作品でもない。重いトーンは、ミリオンダラーベイビーに繋がっていく。
許されざる者 上
日露戦争当時のざわめく世相を背景に、先進思想に富むドクトル槙と旧藩主永野家当主忠庸夫人との許されざる恋の行方を主軸に、和歌山の地方都市「森宮」を舞台に繰り広げられる様々な事件を、事実とフィクションを上手く綴り合わせて描く大河小説。
日露戦争を含む当時の歴史的事件とその当事者たちと、和歌山県は新宮町の地方風俗とそこに生きるフィクション上の登場人物たちとが、見事に融合されてリアリスティックで魅力ある小説世界が立ち上がっている。それは、何処までが史実で、何処からがフィクションか定めがたいほど見事な技だ。例えば、ジャック・ロンドンとの大連での再会や森鴎外や田山花袋との旅順での邂逅など、それこそワクワクするほど興味深い場面だ。
また、重要な小道具であるチェホフの『ロルネット』が、遠く黒海の港町ヤルタから探検隊の一員の手を通じて、最後は永野婦人の手に届くことにより、小説的世界と現実との間の奇跡的な橋渡しとなっている。それはある意味、著者の老獪な小説的企みが見事に利いた実例と言えよう。
新聞小説である点、書き下ろしとは異なりストーリーの流れにやや勢いを欠く憾みもあるが、雄大な大河を思わせる長編小説として、誰が読んでも楽しめる作品としてお奨めしたい。
そんなたゆたう流れの中にあって、三本杉遊郭を廻るエピソードが、水しぶきを上げる早瀬を思わせる筆致の冴えを見せており、長編小説にとっての「箸休め」ならぬ「読み休め」として、いいアクセントになっていると感じた(H21.10.24)。