![]() 龍馬の黒幕 明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン (祥伝社文庫) |
「フリーメーソン」、「スパイ」と刺激的な言葉に、ついつい、よくある”眉つばもの”あるいは”荒唐無稽なオカルト的”読み物かなと思ってしまう。しかし、読み進むうちに、これまで心の隅にひっかかっていた素朴な疑問が、「なるほど、そうか!」と解ける気持ちよさを感じ始める。
薩摩と長州の辺境の2藩が何故幕府を倒せたのか?脱藩した下級武士たちが何故自由に動きまわり、海外に行き、時代を動かす力を持てたのか?確かに素直に考えてみれば実に不思議だ。ここに「刷り込まれた歴史の常識」の怖さがあるのだろう。 日本の歴史の動きには、絶えず世界の歴史の動きが影響している。その当然のことを維新の背景として見事に透視し描き出した著者の思考は見事だ。 「フリーメーソン」、「スパイ」といった刺激的な言葉は、多分、著者が意図的に用いた挑戦的な言葉だと思える。これらの言葉がどうしても気にかかる方は、「人脈」、「意を受けた者」とでも訳して読めば、十分納得が行くのではないだろうか。 |
![]() 草莽無頼なり(上) |
福田善之といえば「真田風雲録」。その主題歌を「てんでかっこよく死にたいな」なぞと高歌放吟しながら機動隊に突っ込んでいった昔もあったわけですが、どっこい「袴垂れはどこだ」の当のご本人が健在で、幕末の志士中岡慎太郎を主人公とする小説をお書きになっていたとは知りませんでした。
世間ではまるで馬鹿のひとつ覚えのように、海援隊の坂本龍馬が幕末史を主導したかのような奇怪な幻影にとりつかれていますが、(特にひどかったのはエヌエチケイの大河ドラマの史実を無視した英雄主義史観)とんでもない話で、別に彼がいなくたって維新は達成されたわけですし、彼のほかにも無数の志士たちが列島各地に叢生していた。著者がいうように、時代が青春期を迎えていたわけです。 慶応3年(1867)11月15日、所も同じ四条河原町上ル醤油商近江屋新助方2階で暗殺された一代の英雄?龍馬ではなく、従来あまりフットライトを浴びることがなかった、このどんくさい土佐の庄屋の倅、に着目して幕末動乱史を描こうとしたのは、さすがは福田善之といえるでしょう。 本書ではこの、いささか遅れてやってきたけれども真打ちの革命家の前史として、土佐藩の武市半平太、長州藩の久坂玄瑞や高杉晋作など尊攘派志士とのまじわりを通じて、吉田松陰の「天朝も、幕府、我藩も不要、ただ六尺の我身が入り用」という草莽の思想に逢着し、疾風怒涛の青春の渦中に身を投じるところまでを、悠揚せまらぬ、けれど深い学殖に裏打ちされた、見識ある高等漫談とでも評すべき語り口で吟じつくしています。 青春を終わりし時代の行き止まりてんで恰好悪く死んじまうおれたち 茫洋 |
『ふたりで竜馬をやろうじゃないか』 堀内孝雄 / はぐれ刑事純情派主題歌
『ふたりで竜馬をやろうじゃないか』 (カラオケ) / TV朝日「はぐれ刑事純情派ファイナル」主題歌 歌:堀内孝雄,五木ひろし 作詞:荒木とよひさ 作曲:杉本真人 movie編集:音楽のページyooy.jp ◆中岡慎太郎について慶応3年2月(1867年3月)、龍馬ともども土佐藩から脱藩罪を赦免される。 同年7月、かねてから長州で見聞していた奇兵隊を参考に陸援隊を本格的に組織し始め、自ら隊長となり、白川土佐藩邸を陸援隊の本拠地と定める。 この頃、討幕と大攘夷を説いた『時勢論』を著す。 慶応3年11月15日(12月10日)、京都近江屋に坂本龍馬を訪問中、何者かに襲撃され瀕死の重傷を負う(近江屋事件)。龍馬は即死ないし翌日未明に息絶えたが中岡慎太郎は二日間生き延び、暗殺犯の襲撃の様子について※谷干城 (土佐藩士) などに詳細に語り、11月17日に死去した。享年30歳。 死後、海援隊士らはいろは丸沈没事故で多額の賠償金を支払わされた紀州藩の報復であると考え、紀州藩士三浦休太郎を襲撃し、警護に当たっていた新選組と戦った(天満屋事件)。 墓所は、京都市東山区の京都霊山護国神社ほか。室戸岬に銅像が立つ。この銅像は桂浜にある龍馬の銅像が向かう先と同じ方向を見ているといわれている。 (エピソード) 龍馬は最初に頭部(額)を深く斬られ、脳を損傷した。その際に慎太郎のことを「石川! 石川は居るか!? 大丈夫か!?」と口走った。慎太郎の苗字が中岡であるにも拘らず、「石川」と口走ったのは、変名に「石川」姓があり、慎太郎の正体がばれないよう最期まで龍馬が気遣ったと言われている。 ◆※谷干城について - 坂本龍馬への尊敬土佐藩上士の谷干城は、同じ藩の郷士と呼ばれる下士出身者である坂本龍馬を厚く尊敬したとされる。また、彼自身の伝聞では、慶応3年(1867年)に龍馬が暗殺されたときには ...
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