シンプル族の反乱
この本で触れられているようなシンプル族の存在は確かにあると感じられるけど
入口が結論になってそこから話を組み立てているようで、結論ありきの感じが否めない。
オタク族など物に執着している若者たちも確かにいるのに視点からすっとばされてるのも気になりますね
欲しがらない若者たち(日経プレミアシリーズ)
「本書では……消費者向けアンケート調査の結果や若者へのインタビューなどをもとに、
若年層の意識や行動、消費動向の変化とその背景を探っていく」。
基本的な問題意識は、「日本経済が彼らへの対応を急がねばならない理由は、そうした
満足が消費支出と結びついていないことにある」との指摘に凝縮されている。つまりは、
年長世代がいかにして若年層を経済行動へと取り込むか、が本書の問題意識。
mediaからcommunicationへのライフスタイルのシフト、こうした世代間の変化を
読み解く筆者の分析は正確(ちなみにここで言うmedia、その語源はラテン語medium、
すなわち神と人との中間に立つ巫女の意。翻ってcommunication、その語源はラテン語
communicare、つまりは分け合うこと、シェアすること。前者はマスメディアや世代に
よって象徴される垂直的な関係を指し、後者は友人関係、非イエ制度型家族関係などの
水平的な関係を指す)。
結局のところ、mediaを介したホモ・ソーシャルがあってこそ成り立っていた車や酒、
恋愛といった消費形式が、就職氷河期における世代間断絶、世代内断絶の結果、「見せる」
「差をつける」「ライフスタイルを体現する」という意味を失ってしまったがゆえの現象。
簡潔に言えば、「みんながそうしているから」の「みんな」が崩壊して、半径数メートルの
「キミ‐ボク」関係へと解消した、というだけのお話。
本書のテーマ設定において不快でならないのは、このホモ・ソーシャル・ベースの消費
モデルを崩壊させた元凶であるバブル期以上の老害世代が、何をどう勘違いしたのか、
被害者面を決め込んでいること。一連の観察はこのバカどもが経済共同体から若年層を
排除したが故の現象に他ならないのに、若者が「欲しがらない」とはこれいかに。
自分たちが人未満の扱いで若年層を遇しておきながら、都合のいいときだけ、つまり
モノを売りたいときだけ、己の金銭欲を満たしたいときだけ、彼らを人扱い。
それでありつつも、日本経済を憂うなどと大上段に構えて卑しい性を隠蔽。
そら、そんなものにコミットする気なんて起きないわな。
「嫌消費」世代の研究――経済を揺るがす「欲しがらない」若者たち
サブタイトルに興味を持って読んでみました。
世代論は、時代と年代・年齢層という、進度の異なる2つの時間軸によって発生する該当世代の性向であると考えます。 過去50年程度についてその分析は著者の説明で相応の納得感はあります。
ただ超然と(?)もっと長いスパンや多元的に考えると、日本の歴史上、たった50年だけなんですよね。 100年前はどうだったんだろう? この50年、特にバブル期だけが異常だったかも知れないし、海外に置き換えたら同じ論理で全て説明付くかどうか。 今後BRICsの人々は、日本と同じ世代論をなぞるのだろうか。
って、そんなこと考え過ぎてたら、何も出来ないんですけどね。 マーケティングには過去分析が重要である限り、この種の疑問と分析はつきものです。
このことって、実は地球温暖化議論にも同じように感じてしまうヒトは多いのでは。 地球の数十億年という歴史上、人類が科学的分析を行ったのはたった100年程度だということ。 その超短期的変動だけて全てを結論づけて良いのだろうか。
まぁこれも、科学というものは獲得した最新のものを信じるしかない、という前提に立っており、それは世代論でも同様ではないでしょうか。
世代というものは常に上下関係の中で互いに反発・反面しあうものであれば、好消費世代のぶり返しで嫌消費世代が到来した、ということは著書の範囲で理解しうるし、所詮我々が生きてる数十年という短期的マーケティングには有効だろうと思います。
ただ個人的に、サブタイトルのようなクルマが売れない状況というのは、消費性向だけでなく、商品性と価値をメーカー側がミスリードした面も非常に大きいと考えています。 マーケットには常に需要する側・供給する側という二者がいることを忘れてはなりません。 まぁその辺は自動車評論に譲ることとなりますね。